高等ムーミンをめぐる冒険

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寓話としての短編カレー小説

 その日は一限から山の上で授業だった。私はいつものように山の麓にあるキャンパスまで自転車で行き、テニスコートの裏に自転車を停めて、そこからは歩いて山道を登った。 

 授業は午前中だけで、それも微睡みの中で滞りなく終わった。いざ帰らんと席を立とうとすると、学科における数少ない友人の一人が話しかけてきた。 

 「今さ、ものすごくカレーが食いたくないか」 

 私は彼の言動を不審に思い、とりあえず「別に」と答えた。話を聞くと、なんでも理学部キャンパスのレストランでカレー食べ放題というのがあるそうだ。しかもそれはちょうど本日までだという。 

 説明を受けるた私は、結局彼の申し出を承諾した。特にお腹がすいていたわけではなかったが、朝食がバターしょう油ご飯だけだったし、そもそも私はカレーという食べものが大好きなのだ。 

 


 理学部の食堂の二階で件のレストランはひっそりと営業していた。私は認識していなかったが以前から存在しているのだろう。階段のところに"あおしす"という文字が見えた。おそらく青葉山とオアシスをかけたこのレストランの名前であると思われる。この大学の施設はことごとく古くて汚らしいのだが、その店の内装はなかなかきれいで好感を持てた。食事をとる場所というのはこうでなくてはいけない。 

 店に入ると、我々は窓際の二人がけの席に案内された。ガラス越しに外の様子が見える。カフェテラスのパラソルが風にあおられて揺れていた。雲はなく良く晴れているが、そこで食事をとっているものは誰もいなかった。 

 カレーバイキングはミニサラダ、ドリンク一杯、ナン一枚がセットになっており、682円というシロモノだった。貧乏学生の昼食としてはやや豪華ではあるが、たまにはこういうのも悪くない。ドリンクが選べたので私はパインジュースを頼んだ。パインジュースは当たり外れの激しい地雷源ではあるが、非日常を感じたくてついギャンブルをしてしまった。運ばれてきた薄黄色の液体を口にすると、パイン飴を水に溶かしたような味がした。 

 バイキングはホテルの朝食におけるそれのように入り口付近から壁際に並べられている。カレーは四種類あり、日替わりで中身は異なるらしいが、その日はセイロンカレー、トマト風カレー、豆のカレー、ハヤシライスがあった。ハヤシライスはカレーではないのではないか、という疑問を封じ込めた私はとりあえずご飯と豆のカレーをよそり、トッピングをどっさりのせた。トッピングには福神漬け、ブロッコリー、トマトなどから、なんとコロッケまであり、これも取り放題であるから良心的である。友人はトマトカレーとハヤシライスをダブルでかけていた。二人して席に戻ると、さっそく食べ始めた。

 「しってるかい。カレーのスパイスってほとんど漢方薬なんだよ」 と、彼が言った。理学部の学生というのは知識を披露したがるのだ。

 「ああ、ターメリックはウコンのことだしね」 私は先日インターネットで仕入れた知識で応酬した。

 「内臓の調子がよくなるぜ」 

 「食えば食うほど腹が減る、という奴だ」 

    その時はまだよかった。 

 五分もすると私は一杯目をたいらげてしまった。見れば友人はルウだけ食べてライスはきれいに残してある。飯は食わずにルウだけお代わりしまくるつもりなのか。その計画性に戦い慣れたものの策略を感じ取った。我々は美味しさとか美しさよりも、いかにして元を取るかを考えてしまうのだ。

    私は元ミスターカレー好きとして彼には負けられないと思い、二杯目に取り掛かった。今度はセイロンカレーとハヤシライスにした。二杯目はまだ余裕である。三杯目に取り掛かると、遅れてナンとサラダがやってきた。ありがたい、サラダがちょうどいい口直しになる。ところが、ナンが思わぬ伏兵であることがわかった。何せ腹にたまる。こいつに胃のスペースをとられては後が続かない。 

 「水につけて流し込めばいんじゃないだろうか」 と、彼は言った。

 「ホットドックの早食いじゃないのだぞ」 

 「体格で劣る日本人が勝つにはそれしかないんだ」 

   ついに訳の分からぬことを言い始めた。欧米人と戦っているのだろうか。そもそも、味を犠牲にしてまでやる価値があるのか。 

 四杯目を食べる頃にはだいぶ腹がきつくなっていた。しかし我々は協議の末にまだやれると判断し、五杯目をよそりに行った。それはまさに戦いであった。胃のほうはすでに限界のサインを送ってきている。私のほうがやや早いペースでカレーは食べている。しかし私にはまだナンが半分以上残されていた。私は必死でご飯をたいらげ、ゴール間際のトライアスロン選手のような面持でナンをルウに浸した。 

 


 そのようにして我々の戦いは終わりを告げた。しかし我々を待っていたのは達成感でも満足感でもなく、疲労感だけだった。腹はパンパンにふくらみ、できればそのまま動かずにいたかったがそうもいかない。結局私はご飯約三杯とカレー五杯、サラダ一皿、コロッケ二枚、トマト一個分、ブロッコリー一株分、パインジュース一杯、水二杯を食べた。友人も似たようなものだった。胃の容積をオーバーしている気もするが、まあ気のせいだろう。

 我々は外に出て少し歩いた。胃は鉛のように重く、ともすれば野草に栄養を与えてしまう恐れがあった。野生動物は基本的に食べ過ぎるようなことはしない。食事の間は無防備であるし、食後は動きが緩慢になる。消化に要するエネルギーが割に合わない。我々は生物としての本能を失った人類の祖先に呪詛を送りながらため息をついた。

 「満足して帰りたかったら、最後の一杯が余計だった」 

 「やれやれ」 と私は言った。

 友人は原付なのでキャンパスの入り口で別れた。軽快に山道を降りていく彼の姿を見ながら、ふと、私はこの重たい腹を引きずって歩いて山を下らなければならないことに気づいた。 

 眼下の果てしなく続くような下り坂を眺めて、私はもう一度深い溜息をついた。